Louis Armstrong(ルイ・アームストロング)

 

ジャズ史上最大の巨人 ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)

巨人である。しかもとんでもないレベルの巨人だ。

ジャズ界のみならず、現代のポピュラー・ミュージック界すべてにおいて彼がいなければ異なったものになっていたと言われるほどである。いや、エンターテインメント業界と言ってもいいかもしれない。

ルイ・アームストロング。愛称サッチモ。他にもポップスやディッパー・マウスなどヒーローにふさわしいほどの呼び名がある。

『ルーツミュージック』という本サイトに登場するミュージシャンの中でも、その存在、偉大さ、影響力、凄さなどあらゆる尺度において、紛れもなくTOP5に入る存在である。

つまり、アームストロングが果たした偉業はルーツミュージックにおいてあまりにも大きすぎるので、どう語るべきか悩ましい。

本来、というかその内容の濃さ故に彼一人でも本やブログはもちろん、メディアも立ち上げられるぐらいのボリュームがある。実際、今なお世界中で彼の偉業を伝えるべくコンテンツや情報がたくさん発信され、イベントなども行われている。

したがって、このサイトの1ページで収まるはずもないのだが、最低限の基本的なところは押さえるつもりで書いていきたいと思う。

サッチモ・フリークのような人からすると全然物足りないかとは思うが、それは例えばロバート・ジョンソンでもエルビス・プレスリーでも同じなのでご理解願いたい。

このサイトはルーツミュージック全般を世に広げ、伝えるために立ち上げているため悪しからず。

 

ルイ・アームストロングの何が凄いのか?

ジャズやルーツミュージックに詳しくなくとも、ある程度音楽をやっていたら、ルイ・アームストロングの名前ぐらいは知っているのではないだろうか?

コルネットやトランペットを吹き、数々の名曲を歌ったまさに伝説のミュージシャンである。

ただ、なぜ、いったい彼の何が凄いのかと問われれば、なんとなくボヤッとしか出てこない人も多いだろう。
「有名な曲があるから?」もちろんそれもあるが、もっと大きな”革命的な”ことをやってのけているのである。

ジャズ発祥の町と言われるアメリカ、ルイジアナ州のニューオリンズには、中心街フレンチ・クォーターの北に【ルイ・アームストロング公園】という広大な公園がある。さらにこの公園の中には【コンゴ・スクエア】というジャズ発祥の地があると言えば、ルイ・アームストロングという人間がいかに凄いかがわかると思う。

写真は公園内にある銅像。※(出典:4travel

Louis Armstrong's Hot Five
(出典:Encyclopedia of Early Jazz)

 

確かに細かいことまで含めても彼のやってきた凄いことはいっぱいあるが、大きくはこの3つが巨人と言われるべき功績なのではないかと思う。

①集団即興演奏からソロ・インプロヴィゼーションを開拓

ルイ・アームストロングが本格的にジャズ・ミュージシャンとして活動しだした1910年代、ニューオリンズ・ジャズやディキシーランド・ジャズといった初期型のジャズはすでに出始めていた。

当時のジャズマンたちの演奏スタイルというのは、まだ前身のマーチングなどの黒人ブラスバンドの名残もあって、各パートが対位法的に同時に即興演奏をしていたが、アームストロングがこれをソロパートによる即興演奏に変えたのである・・・?

「なんのこっちゃ?」と思う人もいるだろう。ジャズや音楽、楽器などの経験があればわかると思うが、つまりスウィング・ジャズ以降〜現代ポピュラーミュージックにおいて常識的なソロ(独演)と言われる重要なパートを最初に開拓したという功績なのである。

ソロって、まあ簡単に言えばポップミュージックなどでも歌と歌の間に入る間奏のことで、ここで重要なのは”インプロヴィゼーション=アドリブ・ソロ”のことになる。

ジャズではもちろん、いろんなパートが曲間でいわゆる”ソロ回し”をしたり、他にも例えばハードロックなんかもギタリストが”速弾きソロ”を弾いたりするのも、元はと言えばここにたどり着くということになる。

他の楽器でもソロというものが楽曲を構成する上で当たり前になっている現代のミュージックにおいて、この功績がどれだけ偉大であるかわかるだろうか。

もうこれだけでもかなり凄いことではある。

 

②”スキャット” ジャズ・ヴォーカルの革命

その独特のダミ声は、聴く人に何ともいえないインパクトを残す。決して上手いとは言えないのかも知れないが、一度聴くと彼の声だとわかるし、包み込むような温かみのある歌に引き寄せられる人も多い。

そして、その魅力的な歌や声ももちろんルイ・アームストロングの凄さではあるが、やはり最も有名なのは”スキャット”という唱法を編み出したからであろう。

ジャズを知っている人や、ヴォーカルの経験があれば「あーなるほどスキャットね!」となるであろうが、知らない人にとっては(?)なのはしょうがない。

スキャットって、要は歌声なんだけど、ちゃんとした歌詞ではなくて「シュビドゥビ」とか「ダバダバ」とか「ドゥビドゥバ」みたいなジャズによく出てくる歌い方のこと。歌詞が無いような曲とか、声で楽器みたいに出したい時に使うんだけど、この即興加減がまたジャズによくハマるワケである。

元々はアームストロングがレコーディングの時に歌詞を落としてしまって、つい適当に歌ったのがスキャットの始まりだと言われているけど、今となってはただ適当に歌うだけじゃダメで、そこはセンスがとても重要になってくる。

だからある程度は慣れや練習というか、やっぱり即興なので、それだけジャズヴォーカルの経験が無いと難しいテクニックであることは間違いない。

まあ、今では当たり前の歌い方になってるけど、そんな風に歌まで即興楽器としてしまったというセンスがやっぱり飛び抜けていたんだから、偉大な功績であることがわかると思う。

 

③凄すぎるトランペットの腕前

①と②が凄いので、とかく一般的には忘れられがちだが、そのトランペットの腕もずば抜けていたようだ。

よく言われるのが、1920年代の若い頃のテクニックは時代の10年先を行っていたという話で、トランペットを自由自在に操り、ブルースフィーリングを出したり、ヴォーカルのように吹くスタイルなども今までには無い天才的な演奏で、他のクラリネットやトロンボーン奏者などにも影響を与えていたということだ。

ベンド(音を強引に下げる)、グロウル(呻くように吹く)、シェイク(激しく音を上下させる)などのテクニックはその代表的なものだ。

また、その音楽への世界観は後のミュージシャンたちはもちろん、ポピュラーミュージック全般においても影響を与えた。

ウィントン・マルサリスはこんな名言を残している。

「いろんなトランペット奏者の良いところを盗もうと思ったけど、ルイ・アームストロングだけは盗むことができなかった。とにかく凄すぎるんだ。」

 

かのマイルス・デイビスも、

「ルイ・アームストロングの影響を受けていないトランペット奏者はいない。私は彼の歌も演奏も大好きだ。それに喋りまでジャズになっている。」

 

後に世界のトップに君臨する二人のトランペッターがこのようにアームストロングのことをリスペクトしていて、別次元だということを認めている。

 

ルイ・アームストロングの人生と歴史

もちろん僕がルイ・アームストロングの人生を書くなんておこがましいのはわかっているので、まあざっとその年表的なことや他にもたくさんの偉業があるので、そのへんをまとめてみようと思う。

(1901年) ルイジアナ州ニューオリンズに生まれる。

(1914年) 発砲事件を起こす。 ⇒ 少年院でブラスバンドを始め、コルネットを教えられる。

(1915年〜1922年)
ニューオリンズでバディ・ボールデンに影響を受けて、この頃からどんどん音楽の腕を上げる。

また、キング・オリヴァーは父親のような存在でコルネットを教えてもらうようになった。

その後ミシシッピ川を行き来する蒸気船でコルネットを吹いていたアームストロングは、16歳頃にはプロとななる。   

(1923年) シカゴにてキング・オリヴァーに誘われ、楽団へ入る ⇒ 初レコーディングへ

(1924年) リル・ハーディンと結婚
    ニューヨークにてフレッチャー・ヘンダーソン楽団に入り、コールマン・ホーキンスやベッシー・スミスとも共演した。

(1925年) シカゴにてリル・ハーディンとホット・ファイブ&セブン結成:Okehレーベルでレコーディングを行い、この時のメンバーはキッド・オリー、ジョニー・ドッズ、ジョニー・セイント・サイアがいた。

Louis Armstrong's Hot Five
(出典:Encyclopedia of Early Jazz

そしてこの頃から本格的にトランペットを使い始める。

(1926年) 「Heebie Jeebies」がジャズ史上初のスキャットでヒット。
      バンド名をニュー・セバスチャン・コットン・バンドに変更

(1928年) アール・ハインズと共演

(1930年)  RCAレーベルへ移籍。ジミー・ロジャーズとセッションして、「Blue yodel No.9」をリル・ハーディンと共にレコーディング

      ヨーロッパ公演を行う。

(1936年) 自伝『Swing That Music』を出版

(1953年) 初の日本公演を行う。

(1954年) 自伝2『Satchmo – My Life in New Orleans』を出版

(1964年) 63歳で「ハロードーリー!」で全米No.1を記録

(1967年) 66歳で「What a Wonderful World」をリリース。後にこの曲はアームストロング史上最も売れた曲となる。

 

エンターテイナーとして

ルイ・アームストロングはその笑顔やパフォーマンスで観る人たちを引き寄せていたが、そんな能力はエンターテイナーとしての才能も開花させていた。

特に映画出演に関しては有名で、数々の名演を残している。しかも1936年の『黄金の雨』を皮切りに20本ほどの映画に出演しているのだ。もはや俳優とも言えるレベルじゃないか!

僕はビリー・ホリデイと共演した『ニューオリンズ』やグレン・ミラーの伝記である『グレン・ミラー物語』、音楽的名作『真夏の夜のジャズ』などの音楽関連作品なんかは観たが、代表作と言われるのは『上流社会』『5つの銅貨』『ハロー・ドーリー!』あたりで、残念ながらまだ観ていない。

『5つの銅貨』

それだけいろんな作品にも引っ張りだこで、いかに俳優としても優れていたかがわかる。

まだある。

さらにそれだけではなく、自伝も書き残している。『Swing That Music』、『Satchmo – My Life in New Orleans』、『In His Own Words』などの名作が有名だ。

 

ジャズを世界に広め、人種差別への抵抗をし続けた

人によっては、これらのことがルイ・アームストロングの最も重要な偉業だと言うかもしれない。

・アフリカ系アメリカ人主体の音楽であったジャズを世界的に認知させ、広めた。

元はニューオリンズのアフリカ系アメリカ人が発祥のジャズであるため、白人社会のアメリカ国内において、始めは馴染みが少なく、なかなか広がっていかなかった。

しかし、1920年代の南部に居たアフリカ系アメリカ人の北部都市、とりわけシカゴへの大移動があり、徐々にジャズという音楽が浸透し始めた。

ルイ・アームストロングはそんな時代にニューヨークやシカゴで活発的にジャズを広めていった。凄腕のトランペットやスキャットなどの歌を引っさげて、それに乗っかるように同じアフリカ系アメリカ人のジャズマンたちもアームストロングと同様にジャズを広めていったのである。

 

・様々な人種差別の困難を乗り越え、笑顔を振りまく?ことで、白人層への興味を引き寄せた。その後の黒人系ジャズマンたちにとって、やりやすい土壌を作った。

もちろん、人種差別がまだまだ色濃く残っていた当時のアメリカで、アームストロングが活躍するというのは、いかに凄かろうとも決して簡単なことではない。

そんな状況において、彼は白人層に陽気に笑顔を振りまき、気に入られるような態度を作り続けた。

”媚びを売る”というような簡単な話ではなく、辛くひどい仕打ちを受けていた黒人ミュージシャンが生き残り、白人にも認めてもらうために捻り出した唯一の方法だったのかもしれない。

その効果は素晴らしく、段々とアメリカの音楽界において黒人のミュージシャンが見直されることに繋がるのだ。

彼がそういったことを続けたおかげで、後続のアフリカ系アメリカ人のミュージシャンたちが音楽活動をやりやすくなった。

後にマイルス・デイビスがクールなスタイルを気取って、ステージでは笑顔を見せず、白人に対しても少しぶっきらぼうで、ある意味スターっぽい態度を取ることが出来るようになったのも、ルイ・アームストロングがそのような下地を作ってくれたからに他ならない。

つまり、アメリカという白人至上主義の国で、あれだけブラック系のミュージックが活躍出来るようになった下地を作ったのがまさしくルイ・アームストロングだったと言っても大げさではないのである。

 

 

あまりにも凄すぎて、まだまだ書ききれないことがいっぱいあるのだが、より詳しく知りたい方は、さすがにいくらでもWeb上の情報や書籍があるのでそちらを見ていただければと思う。

それぐらいのボリュームがあるのでこのくらいで止めておこうと思う。

そしてここからは曲を紹介していきたい(これもまた多すぎて大変なのだが・・・)。

 

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