Charlie Poole(チャーリー・プール)

(出典:Discogs

ブルーグラスにも影響を与えた革新的なバンジョー・プレーヤー

◯1892年 ノースカロライナ州フランクリンビル生まれ
◯ストリング・バンド『ノースカロライナ・ランブラーズ』のリーダー
◯プレイスタイルが後のブルーグラス系ミュージシャンへ与えた影響は大きい。

チャーリー・プールはカントリーミュージック全般において、特にブルーグラスにとっては影響を残しているので、重要なミュージシャンとしての位置づけにしたい。

最も有名なのはそのバンジョーのプレイ・スタイルではあるが、チャーリーが率いたユニットである『ノースカロライナ・ランブラーズ(下写真)』の存在があってこそ名を轟かせることが出来た。


(出典:Waylon

 

3本指のバンジョー・ピッカー

チャーリーは先祖が迫害から逃れてきたアイルランド移民で、家系も家族も貧乏だった。両親はミル(製粉)の製造工場で働いていたが、とても楽器を買えるような経済状態ではなく、チャーリーはひょうたんからバンジョーのようなものを作って弾いていたらしい。

子供の頃、野球をしていた時の事故で右手の指が変形したようだ。しかしチャーリーはバンジョーを弾くことを諦めずに、3本指で弾くように練習した。しかしこのことが、後の伝説的なバンジョーのピッキングスタイルである”クローハンマー”を生み出すことに繫がった。

そんな環境や性格的なものもあったのかもしれないが、地元でも評判の不良少年となって、喧嘩ばかりしていたそうである。19歳で結婚したが、わずか10ヶ月で離婚した。よくありがちなことだけど、こういうのは世界どこに行っても同じなんだな。

しかしその後、繊維工場で真面目に働いて稼いだお金で、本物のバンジョーを買えるようになった。そして20代には念願のギブソンのバンジョーを買えるようになったらしいが、これは密造酒の売買で稼いだとも言われていて真偽は不明だ。

それからチャーリーは相当な酒好きであったようで、晩年にはアル中になり、最期は心臓発作で命を落としている。

 

ポジー・ローラーとの出会い

1917年、チャーリーはヴァージニアのポジー・ローラーと出会い、意気投合してユニットを組み『ノースカロライナ・ランブラーズ』と名付けた。そしてチャーリーはポジーの妹と結婚するようになった。

チャーリーの幼なじみのノーマン・ウッドリーフやクラレンス・ファウストなどがギターで参加して、バンドはより完全な編成になっていった。

バンドは数年間、南東部を中心にツアーを行い、いろんなパーティーや劇場などでスクエアダンスに合わせて演奏しまくった。

そして1925年、ニューヨークでコロンビア・レーベルのオーディションに受かり、初めてのレコーディングにかかるのである。

 

主な代表曲

ここからは順に曲紹介を兼ねていこう。

1925年の初録音から1930年までは基本的に『ノースカロライナ・ランブラーズ』としてのクレジットである。

1925年の最初のレコーディングでは4曲を録っている。この時のギターはノーマン・ウッドリーフ。その後は変動があるが、メインのギターにはロイ・ハーベイが参加している。

The Girl I Left In Sunny Tennessee(1925年)

記念すべき一発目のレコーディングで、ストリング・バンドによるオールドタイミーな曲。バンジョー、フィドル、ギターの楽器編成であるが、この少し高めのヴォーカルがチャーリー・プールの声のようだ。この編成の中でリズムをキープする楽器が無いけど、そのへんは3人の息がピッタリ合っているから問題ないのだろう。チャーリーなんてバンジョー弾きながら歌うので難しそうに思うのだけど、さすがである。

重要度 3.0
知名度 2.0
ルーツ度 3.5
好み 2.0
総合 2.5

 

 

Don’t Let Your Deal Go Down Blues(1925年)

この曲も初回録音の4曲のうちの1曲であるが、なんと10万枚以上のセールスを記録したバケモノ級の曲だ。最初の録音が一番売れたという本人もビックリな展開で、”売れた=代表的な曲”となっている。

また、この曲が有名になったこともあって、チャーリーのバンジョープレイは後のブルーグラスを中心とするカントリー・ミュージックのバンジョースタイルの基礎を作ったと言われるようになったとても重要な曲である。

しかも1925年の録音なので、1927年の「ブリストル・セッション」より早い。つまりジミー・ロジャーズカーター・ファミリーよりも早く世に知られており、まさにカントリー・ミュージック創成期に活躍した一人なのである。

重要度 4.5
知名度 4.0
ルーツ度 3.5
好み 3.0
総合 4.0

 

 

White House Blues(1926年)

ブルーグラスのミュージシャンを筆頭にたくさんカヴァーされているトラディショナルソング。その中でもチャーリーたちが1926年に最初の記念すべきレコーディングをしている。ひたすらに同じパターンを繰り返している曲だが、歌の内容はワシントンのホワイトハウスについてのことで、マッキンリー大統領の暗殺について歌っているようだ。

重要度 3.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.5
好み 2.5
総合 3.0

 

 

Leaving Home(1926年)

この時期はチャーリー・プールのバンジョーとポジー・ローラーのフィドルは変わらないが、ギターがロイ・ハーベイになっている。曲のタイトルこそ違うが、これは有名なトラディショナル・ソングである「フランキー&ジョニー」である。いろんなジャンルでカヴァーされているが、とてもシンプルで味付けしやすいのもポイントだろう。彼らのバージョンはオールドタイムっぽくもあり、R&Rに近い感じでもある。

重要度 2.5
知名度 3.0
ルーツ度 4.5
好み 2.5
総合 3.0

 

 

You Ain’t Talkin’ To Me(1927年)

ボブ・ディランがノーベル文学賞の受賞スピーチの中で、チャーリープールとこの曲のことを間違えて話したために?有名になった曲。つまり、その歌詞について語ったようだが、実は後にアルフレッド・パッカー・メモリアル・ストリング・バンドというバンドがパロディで反戦ソングに描き下ろしたものを取り挙げて、チャーリープールの歌として紹介したようで、ボブ・ディランがそのことを知らなかったのか、少し物議を醸したようである。うーん・・・なんともマニアックなネタである。

原曲の方は軽快なバンジョーとメロディックな歌のオールドタイム・ソングでいい曲だ。

重要度 3.0
知名度 4.0
ルーツ度 3.5
好み 3.5
総合 3.5

 

 

Baltimore Fire(1929年)

これは1904年に実際に起きた”ボルチモアの大火”と呼ばれる大火事についての曲である。レコーディングは1929年であるが、この時はフィドルがロニー・オースティンに代わっている。のどかなカントリーソングであるにもかかわらず、どこか悲しそうな感じがするのはやっぱり火事が相当悲惨なものだったからであろうか。

重要度 2.5
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 3.5
総合 3.0

 

 

Flop Eared Mule(1929年)

実はチャーリープールは『ノースカロライナ・ランブラーズ』だけではなく、『Highlanders(ハイランダーズ)』というユニットも組んでいて、この曲がその代表作である。写真のサムネイルを見てもらうとわかるように6人組でツインのフィドルとルーシー・テリーなるピアノが加わったインストゥルメンタルをメインにレコーディングしている。しかし少々マニアックなユニットではある。

重要度 3.0
知名度 2.5
ルーツ度 3.0
好み 3.0
総合 3.0

 

 

If the River Was Whiskey(1930年)

ジャグバンドにカヴァーの多いトラディショナルだが、この曲もタイトルは通常「Hesitation Blues」と付けられている。”ためらいブルース”なんて呼ばれている有名な曲だ。それにしても歌の冒頭が「川がウイスキーだったら・・・」って凄い出だしである。曲調は確かにバンジョーの音なんかがジャグバンドがやりそうな感じはする。

重要度 2.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 3.0
総合 3.0

 

 

It’s Movin’ Day(1930年)

1930年録音。この時のフィドルはオデル・スミスが弾いている。これは60年代にサイケデリック・フォークバンドの『ホリー・モーダルラウンダーズ』がカヴァーしていて聴き比べると面白い。原曲に忠実だが歌い方などは少しシニカルな感じでいい。

ホリー・モーダルラウンダーズのバージョンはこちら → 「Moving Day

重要度 2.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 2.5
総合 3.0

 

 

Milwaukee Blues(1930年)

最後はこの曲。フィドルはオデル・スミスで結構評価が高い。バンジョーのリズムと変拍子な曲調がブルーグラスっぽさを醸し出している。個人的に結構好きな曲だ。この頃のオールドタイムにしてはめずらしくフィドルのフレーズにブルーノートが入ってていいアクセントだ。

重要度 2.0
知名度 3.5
ルーツ度 3.0
好み 3.0
総合 3.0

 

 

まとめ

偶然というか、野球で怪我をして指が全て使えなくなり、使える3本指でバンジョーのピッキングを始めたところから、独特のリズムやアルペジオ奏法を編み出し、後のブルーグラスのピッキングスタイルの基を作ったチャーリー・プール。これぞまさしく怪我の功名と言うべきであろう。

チャーリーとノースカロライナ・ランブラーズの写真を見るとわかるが、常にスーツを着て蝶ネクタイなんかをして南部の貧乏臭さを見せないようにしていた。気が強くて少々荒くれ者だが、プライドも高かったことがわかる。

酒を飲むのが大好きで、晩年にはアル中になってかなり深刻であった。リリースした最初の曲である「Do n’t Let Your DealGoDown」が大ヒットしたことで瞬く間に有名人となり、1931年にはハリウッドで映画サントラに起用されるという話になっていたのに、その時の契約金ともなる電車賃を酒やパーティーに使い切ってしまい、ついには心臓発作で命を落としてしまうという、なんとも豪快で時代を感じる生き方に圧倒される。

他にもその偉大さを証明するかのように”チャーリー・プール・ミュージック・フェスティバル”やThe Warrior River Boysによるトリビュート・アルバムがあったりと伝説的なオールドタイムのバンジョープレーヤーとして今もなお、リスペクトされ続けているのである。

(以下リンクあり)

チャーリー・プール・ミュージック・フェスティバル
The Warrior River Boys「Didn’t He Ramble: Songs Of Charlie Poole」

 

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